沖縄剛柔流と泊手の伝統を継承した会派
沖縄に総本部を置く、沖縄剛柔流と泊手松茂良派を継承した沖縄空手の会派です。
正式名称は沖縄剛柔流・泊手空手道協会という名で、沖縄県内、関東、東海、九州、カナダなどに支部を置く空手会派です。
会長 渡嘉敷唯賢
昭和15年 沖縄県に出生。
沖縄空手の三大系統の一つである泊手を、泊手松茂良派の継承者仲宗根正侑から直伝される。また沖縄剛柔流を福地清幸の下でも修行し、両系派の継承者となる。
二つの流派を両立する沖縄剛柔流・泊手空手道協会を創設し、沖縄県内外に指導を広く展開。
幾度も中国に渡り、剛柔流の源流・ルールーコー(如如哥)の存在を突き止めるなど剛柔流のルーツ、空手史研究における第一人者。剛柔流開祖の宮城長順が所持していた拳法書「武備志」研究でも知られる。
空手関係上部団体で要職を歴任、世界大会等の県催事で役職、模範演武も多い。
沖縄県空手連合会顧問。
著書に
「沖縄剛泊会空手道-20年のあゆみ-」
「沖縄空手 秘伝「武備志新釈」現代語訳と技法の研究」
「沖縄伝統空手道 那覇手(剛柔流)・泊手(松茂良派)二大流派の血脈を探る」
等がある。
剛泊会の活動
年に1度、沖縄総本部により幹部研修会が開催され、沖縄県内、関東、九州、東海の剛泊会指導者が沖縄県に集います。
渡嘉敷唯賢会長、渡嘉敷唯夫館長による指導を受け、伝統空手の研究と向上に励んでいます。
東海地区の指導者・有段者も年に数回沖縄を訪れ、沖縄総本部道場や剛泊会研修道場にて、ご指導いただきます。
空手史の調査や武術研究の為に定期的に中国に遠征しています。
渡嘉敷唯賢会長による、東恩納寛量に那覇手を伝えたルールーコーや、宮城長順に影響を与えた呉賢貴の調査は、空手専門誌にも掲載される程の成果を上げています。
中国武術家との武術交流なども行い、武術探求を続けています。
また、5年毎に剛泊会カナダ支部への遠征があり、カナダの地で空手の指導や式典等にも参加します。
かつて発行されていた空手専門誌「月刊空手道」には、剛泊会による中国調査の内容や、那覇手や泊手、白鶴拳等の技術解説の特集記事が、幾度も掲載されました。
剛泊会の系譜
沖縄剛柔流の系譜
ルールーコー(如如哥)
1852年生。鳴鶴拳羅漢拳の名師。
1874-1877の3年間で、東恩納寛量に鳴鶴拳を伝えたと考えられる。
師は永らくその存在が謎であったが、渡嘉敷唯賢の調査によりその実像が判明した。
この調査の経緯は、月刊空手道2003年9月号、10月号にも紹介されている。(月刊空手道2003/9より)
東恩納寛量
1853年生。新垣世璋に師事し、若くして有名な武術家となる。22才の時、中国・福洲に渡り、ルールーコーに師事。帰国後、宮城長順、許田重発らを育成した。沖縄空手(唐手、手(ティー))の中興の祖。
宮城長順
明治21年生。14才の時、東恩納寛量に師事した。後に那覇手を剛柔流と命名し、また幾多の傑出した武道家を輩出するなど文武両道を極めた武人である。「人に打たれず 人打たず ことのなきをもととする也」
比嘉世幸
明治31年生。13才の時、東恩納寛量に師事。師亡き後は、兄弟子宮城長順の教えを受け、多年にわたり、空手道の研鑽を積んだ。
福地清幸
大正8年生。沖縄県立第一中学校当時、剛柔流比嘉世幸に師事、空手道を修練し、のちに剛柔流専武館を開設し空手道の普及発展に全勢力を傾注された。
泊手の系譜
松茂良興作
1829年(文政12年)〜1898年(明治31年)、泊村出身の武術家。琉球王国時代から明治にかけて活躍した武術家であり、泊手中興の祖と仰がれる。
伊波興達
1873年(明治6年)〜1928年(昭和3年)、泊村出身の武術家。松茂良興作の直弟子として、日夜鍛錬に励み、後に秀でた武術家となり、泊手の後継者として保存育成にあたった。
仲宗根正侑
明治28年生。松茂良興作の高弟、松茂良興佐、伊波興達、真栄田義任、仲里睦弼らに師事。
泊手の正統継承者であり、仲宗根カーカーと呼ばれ、沖縄最後の武士と人々から敬慕されていた。
沖縄県豊見城市にある沖縄空手会館にて生前の演武姿を映像で見ることができる。
「慎みの一字を守っていれば、どうして過ちなどが起きようか、一生この世の中を平穏無事に過ごすなら、誠の他に手立てがない」